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苦い思い出(2010//1)

この様な無念な思いなど多くの方が経験しておられるとは思うが、、、

 

最近、昔NTTからノーザンテレコムに出向し、筆者といっしょに仕事をした方とお会いし、昔のことを話していたら以下の思い出話になった。

 

1990年頃だったと思うが、当時筆者はノーザンテレコム(現ノーテルネットワーク)でNTTに電話交換機を納めるマーケティングに従事していた。ノーザンのカナダの工場勤務だった日系カナダ人が上司だったが、筆者は、マーケティングというのは本来、戦略や企画がメインなはずだと思っていたので、何カ月も彼には物足りない思いをしていた。通信事業者に安定して製品を供給するのがノーザンの様な企業にとって重要なことは理解していたが、それだけでは日本市場開拓には不足だと感じた。そこで、「こんな上司の下にいるより、この会社で自分に合った職場を自分で作ってやろう」と考えるに至った。 

 

当時ノーザンは“Fiber World”というブランドで光通信装置ビジネスを始めたので、このビジネスを自分のものにしてやろうと考え、密かに光伝送の勉強を始めた。昼は業務をキチンとこなし、夜自宅で自学自習した。当時は適当な資料が無くて、秘密だから誰かに教えてもらう訳にもいかず、理解に苦労したが、色んなところから集めた資料を何度も繰り返して読むうちに段々分かる範囲が広がって来た。丁度、中国電力がFiber Worldに興味を持っているという情報を掴んだので、適当な資料を送って内容を説明したりしている間に、「日本の9電力会社が提供している通信事業向けにFiber World製品を売り込もう。東京電力が導入すれば他の電力会社は皆後追いするから、東電を先ずお客にしよう。その為に、進取の気性に富んでいる中国電力に評価機を導入し、それを東電他にデモできる様にしよう。」という戦略を立てた。NTTの伝送部門にもコンタクトして、FiberWorldならNTT市場で勝てることも掴んでおいた。

 

半年近く中国電力とメールや資料のやり取りをしている間に中電も試験導入に向けて具体的な検討段階に入って来たので、自分の米国のカウンターパートにこの進展を初めて告げ、「各各然々(カクカクシカジカ)の戦略でやるので応援を宜しく頼む」ということにした。この時以降、筆者は社内で昼間に堂々とFiberWorld担当として仕事できることになった。

 

米国の本社側ではサポート体制をしばらく検討していたが、筆者が日本で属していたPublic Networkではなく、Private Network部門の副社長が担当になった。彼と暫く中国電力対応をしていたのだが、いよいよ筆者がこの副社長の下に異動することになった。異動してみて初めて紹介されたのがCという外人の部長とKという若い社員だった。Cの下でKと一緒に働けという。Cは日本でのビジネスを全く知らなかった。仕様が無いのでCに、日本には電力会社が9つあってこの市場を将来全部取るには東京電力を味方に付けなくてはならなくて、その為には先ず中国電力のこの試験導入をこういう風に成功させないといけないので、と基礎から説明を始めた。だが、Cはプライドが高過ぎたし、日本のビジネス文化をまるで理解しなかった。おまけにKは外人の上司に取り入るのがうますぎた。過去半年以上筆者がボランティアで作った市場開拓戦略や契約締結の一歩前まで商談を実現した実績はCの頭の中からすっかり消え、1カ月経ったら、筆者はKの部下になる様言い渡された。文句をいったら、ここはwestern culture companyだと言われた。 

 

「こんな、やってられるか!」と怒り心頭に達し、FiberWorkdから離れることにした。丁度、NTTにダイヤル104番号案内システムを提案するからそのプロジェクトをやってくれと頼まれた。その後、筆者が準備していた中国電力との契約は、カナダ人の法務担当が張り切って百数十ページの英語の契約書を作って中国電力に嫌がられたり、評価システムを導入した後のフォローアップが拙劣で、導入は結局失敗した、ということを風のうわさで聞いた。

 

今でも残念に思うのだが、どうしてあの時筆者はカナダにいるノーザンの社長に直訴して、FiberWorldを自分の事業として認めさせようとしなかったのだろうか、と。「俺がやっていたら成功したのに」と何度も思った。 だが、当時の筆者の心臓はそこまで強くなく、組織の文化に忠実だった。

 

KenConsultingを立ち上げて今年で9年になるが、どうして起業したのかを思いめぐらすと、過去のこの様な苦い記憶が影響している気がする。