女優 高峰秀子が亡くなったことに寄せて(2011//3)

石坂泰三をもう一度

 

女優高峰秀子が亡くなった。2011年1月3日の日経新聞朝刊文化欄に映画評論家の佐藤忠男氏が「戦後の心に染みた名演技」と題して追悼文を載せている。

 

その中で、氏は映画「稲妻」での高峰秀子の演技を「これは合理的、近代的な人間関係を求める戦後日本人の出発点のような役である。」と評している。「合理的、近代的」は「戦後」の枕詞である。ということは、「戦後」、「合理的、近代的」な選択と行為をしてきたと大方の日本人が考えているということである。だが、「何を」「合理的、近代的」とし、「どういう行為」をもってその目標を実現しようとしたのだろうか?

 

このCHANGE!しようとする欲求のきっかけは言うまでもなく、日本の歴史上初めての太平洋戦争敗戦だ。敗戦の理由付けとして戦前の全てを非合理で前近代的と見做し、その反対を行った。自民党もそうだし、民主党(ほとんど旧社会党)もそうだし、産業界もそうだ。2011年の日経新聞元旦号は例年通りの基調の記事で溢れている。産業界の広告も同様だ。それは、「豊かな生活」とそれを実現する「技術と文化」である。それ以外は無い。日本の将来を憂い「何とかせねば」という論説が僅かにあるだけである。 何でなんだ? 本当は管総理大臣や各大臣、各主要政党の党首の年頭の抱負などが載って然るべきではないのか?何たって国民が選んでいるのだからそれなりに読者もいないはずはないだろう。ここには哲学が欠けている。

 

筆者が2台の旅客機がニューヨークの世界貿易センタービスに突入した9・11の朝米国にいてその現場感を体験したことはこのブログで既に述べた。この事件の深淵を辿ってゆくと、十字軍の遠征に辿りつく。この戦争は高度な文化と科学技術を持った洗練されたイスラム集団が西欧の野蛮な新興集団に敗れた戦いだった。敗れたイスラム文化圏では自己像を回復する為に敗戦の理由付けを行う作業が何百年に亘って行われたのだろう。その過程で何かミステイクをした感じがする。その結果として欧米キリスト教諸国に科学技術と経済力で劣勢を続けるということになった。近代現代においてもそれは同様であり、そうした流れのなかで9・11が発生したと看做すことができる。

 

対する日本は敗戦後世界第2の経済国になり、80年代は「米国何するものぞ」という勢いだった。アラブ世界や、第一次世界大戦で敗れた後衰退したハプスブルク家の東欧と比べると、日本の戦後は世界史上例外的な大成功だったが、しかしやはり、敗戦がその国々の将来を決めるという例外ではあり得なかった様だ。

 

敗戦後の「豊かな生活」実現は米国の傘の下で産官学が連携して行った自民党政権の成果だった。ゴルバチョフはこれを「世界で最も成功した社会主義国、日本」と喝破した。だが自民党が2世3世議員で世襲化し貴族社会化して自壊していった後に誕生した民主党政権は、社会主義的自民党政権が既に達成した後追いをするしかなく、途方に暮れている様に見える。過去数十年慣れ親しんだ発想で、悪辣な資本家が貯め込んだお金を鼠小僧よろしく貧しい人々に分け与えようとしても財源が無いので、国の借金を増やすばかりだ。民主党が国民に語る言葉を失っている所以である。

 

敗戦後の「豊かな生活」を実現して来た米国中心のパラダイムが成立し得なくなり、太平洋戦争前の状況に近くなっている状況にどう対応すべきか定まらないので閉塞感を感じるのだ。何故なら、高峰秀子が体現し国民間で共有した「解放感」を失うことを恐れ、そのころに成立した企業文化や行動の方程式を手放すことができないからだろう。

 

石坂泰三の伝記を読み返して、頭をまっさらにして、日本を自由主義陣営の米国に次ぐ第2の経済大国に維持する戦略を共有すべきではないかと、筆者は思う。何故なら、国はもう頼りにならないことが分かったし、国を富ませるのは企業でしかなく、企業とビジネスモデルの新陳代謝を良くして新らしいパラダイムに適したビジネスを伸ばしてゆくしかないからだ。その様にしている企業は既に何社もある。