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多国籍企業は国の味方か(2011//6)

国民経済と多国籍企業の理想的な関係とは?

 

昨年12月10日、日経新聞の十字路欄に中前国際経済研究所代表の中前氏が表題の文を載せている。氏の慧眼には10年以上前から瞠目し、尊敬申し上げている。円高の為に海外展開を急ぐ日本企業が増え、多国籍企業が特別ではなくなった近年、氏の卓見をシェアすべきと思う。

 

氏は、グローバライゼーションがもたらす最大の経済効果は、国際間の賃金の平準化であるという。コンピュータ製造業の場合、米国で開発し、中国を中心にアジアで生産することで、米国の10?の雇用が生み出されるという。リーマンショック前はそれでつじつまが合っていた。しかしショックの後は米国の雇用を伸ばすには、中国の成長が抑制されねばならない、というゼロサム・ゲームが始まったのだという。「中国の輸出の半分以上が多国籍企業による、という事実は、国民経済と多国籍企業との関係が改めて問い直されなくてはならない」と締め括っておられる。

 

地球が1つの経済単位になってゆく変化がICTの技術進化により加速されたことは明白であり、この主体は多国籍企業だ。投票によって選ばれた大統領が国内の雇用を減じる多国籍企業を応援するという構図は矛盾だ。これは、18世紀のフランス革命に始まる、地理的な国境を基盤とする国民国家の定義とそれを基にする国家運営が噛み合わなくなってきているという現実を示している。過去にエスペラント語を普及させようとしたり、世界国家を夢見た理想主義者達の描いた世界が次第に現実味を帯びて来た様に見えるのは慶賀すべきかも知れないが、世界はそんなに単純には変化しない。

 

国民経済は、当たり前だが、国家を単位とする経済のことだ。では、国家とは何か?専門家の諸説は一先ず置いておいて、筆者は「幸せの単位」という概念を表に出したらどうかと考えている。「幸せの単位」は、個人、家族、コミュニティー、企業、国家、世界、と拡大してゆく。企業は国家の中でコミュニティーとして誕生し、多国籍企業として成長してゆく、という過程を考えるなら、その過程は行動原理、言語などの価値観を共有する複数の人間の活動によって成り立つ。これらの価値観を共有する人間達は国家が提供する環境の中で時間をかけて形成されたものであり、従って国家は企業の揺籃だと言える。つまり、企業は国家の生成物なのだ。

 

途中の説明は省くが、筆者は、日本という環境は揺籃器として世界でもトップの効率を持つのではないかと思っていて、それが日本が今日の経済規模を形成している主要因ではないかと考える。そして揺籃器は健全な国民経済によって守られる。であれば、日本発の多国籍企業は「日本の国民経済を守る」を念頭に置いて頂くべきかと愚考する次第である。