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もっと「歴史眼」を養おう(2013//26)

「俯瞰歴史学」というのを始めたらどうか?

 

日経新聞5月26日の中外時評欄に「もっと『歴史眼』を養おう」と題して論説副委員長の大島三緒氏が一文を載せている。副題は「橋下騒動から何を学ぶか」だ。日本維新の会の共同代表の橋下徹氏の従軍慰安婦に関連する一連の問題に関連して発生した状況に苦言を呈している。これに触発されて筆者なりにコメントしたい。 

 

日中韓の歴史感を比較すると面白い。これら3国で歴史というものに対する認識と目的が違っていて、それに日本の敗戦後遺症が関わっている。単純化して言えば、日本では歴史とは「過去に起こった事柄を事実に即して実証的に再記述すること」であり、その目的は「過去を正確に再認識できること」にある。その根底にあるのは、筆者が過去に何度か言った、リアリズムだ。このリアリズムの精神が日本の科学技術とそれによる産業の背景になっている。

 

中国では、歴史の目的は「王朝の正当性を証明する」ことにあり、歴史とは「その目的にかなう事実及び“事実らしきもの”を年代順に並べたもの」であり、歴史は「自分の王朝に反する者をディベートで言い負かす為の道具」だ。従って、事実でなくとも、事実に近いものであれば歴史的事実として交渉のカードに使えれば良いのだ。リアリズムから真に遠い。中国共産党政府が変心して江沢民時代から反日キャンペーンを繰り広げ始めたのは中国国内を治める為にそれなりの必要性が生じたからだ。この様な文化は、中原を辺境の王朝に数百年に亘って侵略され続け、大量虐殺や数千万人の餓死者が発生するような歴史の過程で、次第に定着したのではないか。

 

韓国も中国に近いのだが、この国では歴史は「自国の経済に利する為の道具」の様に見える。中国の奴隷国家としての数百年が彼らの精神の奥深いところに「恨」の文化を根付かせ、彼らはその深い思いをベースに近代史を再構成している。歴史の目的は「恨みをはらす材料を提供すること」にあり、従って歴史教科書の3分の2を反日の記述で埋めている。人口が2倍に増えた日韓統合時代が虐待の時代だとは客観的に(リアリズムで)見てどうしても受け入れられないのだが、「恨み」の感情を晴らせればそれで良いのだろう。

 

だから、「日中韓で共通の正しい歴史認識を持ちましょうという」等という活動を下手に続ければ、相手のディベートの論理と勢いに呑まれて、口下手な日本の歴史家が思わず「はい、そうでした」なんて言ってしまうことになりかねない。

 

北朝鮮が麻薬や偽札や核ミサイルを開発しているのは、それを脅しに使って食料その他をせしめようとしているからだと聞く。これを略奪経済というらしい。朝鮮半島の南と北で文化(発想)はそんなに異なることはないから、その目で韓国の動きを眺めると、従軍慰安婦が南朝鮮にとって北の「核ミサイル」に相当するものなのではないかと思い至るようになって来る。日本側はリアリズムに従って、客観的事実を歴史的公的資料に由って説明するが、要するにそれで幾許かの物を分捕れば良いと思っている相手にはそれなりの物を提供するしかない。結局それは謀略なのだと認識していれば橋下代表の発言もそれなりに用心したものになったのではないかと思うが、覆水は盆に返らない。

 

ところで、以前このブログで、キッシンジャーの様に政治に役立つヒストリアン(歴史家)が日本に欲しいと言ったが、岡田英弘という歴史家がいる。彼の「歴史とはなにか」という文春新書を最近読んで感銘を受けた。これを読むと、日本が日本列島だけで1つの文明圏を構成していることが解る。筆者は東アジアでどうして日本だけが世界第二の大国になったのかが疑問だったが、その解がこれで或る程度得られる。

 

更に太平洋戦争が日本文明圏の膨張過程で発生した、西洋文明との「文明の衝突」だったこと、更に戦前戦中戦後を通じて日本文明圏が膨張し、今も膨張している過程にあることを認識できれば、日本が今後どうすべきかも見えてくる。歴史を俯瞰的に見る「俯瞰歴史学」があってもよい。